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土浦がアンサンブルの練習のために音楽室に向かうと微かな音が聞こえてきた。
(早いやつがいるもんだな)
今日は二曲やるんだったっけ。
そんなことを考えながらドアを開けると、溢れるような音に思わず足を止めた。
(アヴェ・マリア…あいつ、好きだよな)
音楽室の壇上では香穂子が気持ちよさそうにヴァイオリンを弾いている。
今日合わせる予定のアンサンブル曲ではないので、肩ならしのつもりなのだろう。
だが、そのとき控えめながらもヴァイオリンの音色に華を添えるようなピアノの音に気づいた。
(伴奏…?いったい誰が)
それまでまったく存在に気づかなかったのだが、誰かがピアノを弾いていた。
「…月森?」
小さく呟いた声は壇上の二人には聞こえなかったようで、そのまま気づかずに弾きつづけている。
意外と巧い。
いや、音楽科なのだからピアノは弾けるはずだ。
ましてや、彼の母親は世界で活躍する名ピアニストだ。
ヴァイオリンだけでなく、ピアノも幼い頃から教えを受けていたのかもしれない。
しかし、ここで月森のピアノを聴くことになるとは思わなかった。
ピアノくらい弾けるだろうとは思っていたが、わざわざ聴きたいと思ったこともない。
どうせヴァイオリンと同じで正確無比な演奏なのだろうと思っていた。
だが、柔らかく深みのある音に目を瞬かせる。
(へぇ、アイツ、ピアノは全然違うんだな)
そう思ったのだが、すぐに違うことに気づいた。
ときどき目でタイミングを合わせながら音を奏でる二人の間に流れる空気は独特のものがあった。
音を合わせるのが楽しい。
そんな雰囲気を感じ取れた。
それと同時にお互いに向ける眼差しが、ことのほか柔らかかった。
二人は正式につきあってはいない。
しかし、お互いに好意を持っていることは容易に察することができる。
つきあい始めるのも時間の問題だろう。
なんとなく面白くない気分になったところで曲が終わった。
考え事をしていたため、はずみで拍手をしてしまい、香穂子が驚いた顔で振り返った。
「土浦くん!」
驚いた顔の香穂子とは違い、月森のほうはバツの悪そうな顔をしていた。
ここで知らんぷりもできず、ゆっくりと壇上まで近づいた。
「ずいぶんとよくなったな。おまえの『アヴェ・マリア』」
「そうかなぁ?これだけが弾けたってしょうがないんだけどね。もっともっと練習しないと…月森くん、伴奏ありがとう」
「いや」
椅子から立ち上がった月森は背もたれにかけてあったジャケットを羽織った。
「おまえが伴奏をするとはな」
「別に…、たまたまだ。ヴァイオリンであわせてもよかったのだが、伴奏があったほうがいいかと思ったからそうしたまでだ」
「ふーん、そうかよ…」
突っかかるような物言いになってしまったのか、月森は軽く眉をひそめた。もしかすると、伴奏をしていたのを聴かれたくなかったのかもしれない。
そんな二人の様子に気づく様子もなく、香穂子は嬉しそうに言った。
「月森くんが伴奏してくれるって言ってくれて助かっちゃった!でも、月森くんがピアノ弾けるなんて思わなかったなぁ。すごく上手だよね」
「いや、俺は…」
「音楽科ならピアノくらい弾けて当然だろう?」
しきりに感心する香穂子の態度が気に入らなかったのか、思わずそう言ってしまって、自分でもかなり厭味な言い方になってしまったと口を噤むと、月森は厭味と受け取らなかったのか、香穂子に対して説明する。
「そうだな。専攻は違っていても、ピアノの試験があるから音楽科ならある程度は弾けて当然なんだ」
「えっ、そうなの!?…そ、そういえば冬海ちゃんも弾けてたし…柚木先輩も弾けるって聴いたことある…。じゃ、じゃあ、火原先輩とかも弾けるっていうの!?」
何故か焦ったような香穂子の問いかけに月森は腕を組んで考える。
「そう…だな。俺は実際に火原先輩が弾いているのを見たことがないのでわからないのだが、実技試験はあるのだから一応は弾けるのではないかと思う」
「そう、だよなぁ」
どう思う?というように月森が目で尋ねてくるので、不機嫌になったことも忘れて頷き返した。
「試験に出る程度の曲は弾けると思うぜ。うまい下手は別として」
「そ、そうなんだ…」
微妙に落ち込んだ様子の香穂子に、土浦は音楽科への転科のことでも考えてるなと察した。
「日野?それがどうかしたのか?」
気づいた様子のない月森は首を傾げるが香穂子はなんでもないと首を振る。
なるほど、転科の誘いがあったことは月森にも話していないのか。
土浦はなんとなく優越感を感じて機嫌が持ち直した。
「でも、それじゃあ月森くんも練習大変だね。試験のときはヴァイオリンとピアノと両方やらなくちゃいけないなんて」
「ああ、まあ…」
「月森なら試験の曲くらいは弾きこなせるだろう?そんなに難しいのが出るわけじゃないだろうから」
「え、そうなの?」
「こいつのお袋さん、誰だと思ってんだよ?」
「母は関係ない」
ぴしゃりと言い放つと、月森は香穂子に向けて言った。
「幼い頃はヴァイオリンとピアノは両方とも弾いていた。ヴァイオリンに専念しようと決めてからはピアノのほうは趣味程度に弾くほどになってはいるが、基本はできているから問題ないんだ」
「そうなんだ。でも…いいなぁ、ピアノ弾けるなんて…ヴァイオリンも弾けて…ずるいよ」
「ぷっ…ずるいって」
香穂子の言葉に土浦は吹き出す。
その土浦を月森はジロリと見たが、続けて香穂子が言った言葉に「は?」と問い返した。
「月森くんのピアノが聴きたいな」
「いや…ピアノなら俺ではなく、土浦がいるのだから…」
「俺も聴いてみたいもんだな。おまえのピアノ」
これは厭味とかじゃなくて、純粋な興味。他人が弾くピアノはどんなものなのか。
音楽科のエース様のお手並み拝見といこうじゃないか。
月森はまさか土浦からも言われるとは思わなかったのか、「何故俺が」と言う。
「俺はそんなに巧くはないのだが…」
「巧いとか下手だとかそんな問題じゃなくて、月森くんのピアノが聴きたいの」
聴きたい聴きたいとねだる香穂子に折れたのか、月森はせっかく羽織ったジャケットを脱いで、再度椅子に座った。
「あまり難度の高い曲は弾けないのだが、いいだろうか?」
「うん」
キラキラと目を輝かせる香穂子に思わず苦笑した月森は鍵盤に視線を落すと手を載せた。
そしてゆっくりと弾きはじめる。
「あ、これ、聴いたことある…」
邪魔をしないように小さく呟いた香穂子の隣で土浦も呟くように言った。
「バッハの『主よ、人の望みの喜びよ』か」
やはり、と思った。
正確無比な音に思わず笑みを浮かべた。
少々音が硬いのが気になるが、基本に忠実な演奏だ。
趣味で弾いているという割には巧いほうだろう。確かにピアノ専攻の生徒たちには及ばないかもしれないが。
最期の旋律を弾き終えると小さく息をついて顔をあげた。
香穂子はパチパチと拍手をする。
「すごいすごい!綺麗な曲!」
「これくらいゆったりとした曲なら問題はないのだが、テンポが速くて難度が高い曲は無理だな。練習すれば弾けないことはないと思うのだが、そこまでする必要も感じない。さっきも言ったが、俺のは趣味だから」
「趣味でそれだけ弾けりゃいいんじゃないか?ちょっと音が硬いような気もしたけど、いつもそんな感じで弾いてるのか?」
「いや…」
月森は腕組みをして少し考え込んだ。
「いつもは家で弾いているし、気分転換で弾いているようなものだから、人に聴かせるつもりで弾いたことがないんだ。君たち二人に聴かせるとなると下手に弾くこともできなくて、それで少し硬くなってしまったのかもしれないな」
月森家は防音はしっかりしているし、自室で一人弾いているのならばミスなど気にしないのだろう。
「そっかぁ。でも、やっぱりピアノが弾けるのっていいよねぇ。ヴァイオリンが弾けるのはもっとすごいと思うけど」
小学校の頃、同じクラスの友達にもピアノ教室に通っている女の子がいた。
音楽の先生も女の先生が多かったので、ピアノは女の人が弾くものだと思っていたが、星奏学院に入学してからは考えを改めさせられたけども。
「おいおい、おまえもヴァイオリンを弾くだろうが」
土浦が苦笑混じりに額を小突く。
「あ、あはは、そうだったね」
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とここまで。